歴史上のあの人も食べていた!?昔から愛される和菓子の話

日本茶と一緒に甘い和菓子を食べる時間はとても至福の時間ですよね。
そんな、ほっこりとした時間を過ごせる和菓子を歴史上のあの人物も食べていたとか!?

【和菓子の歴史

その昔、菓子は「果子」と書き、クリやナシ、アケビ、イチゴなどの果物や木の実のことを指していました。
一方、現在の菓子と言えば「加工食品」が一般的です。
この原形は餅や団子で、原料となる米は縄文時代にすでに伝わっていたとされています。
果物や餅・団子が日本人の食生活に受け継がれていくなか、海外からの食文化ももたらされて行きます。
そのひとつは、奈良・平安時代に遣唐使などによって伝えられた「唐菓子」です。
唐菓子とは、小麦などの材料をさまざまな形にし、油で揚げて甘味をつけたもので、「枕草子」や「土佐日記」などの作品にも登場しますが、定着することはありませんでした。
さらに、鎌倉・室町時代には、中国に留学した禅僧などによって、羊羹や饅頭などの「点心」が、戦国・江戸時代初期には、ポルトガルやスペインの宣教師や貿易商人によって、カステラやボーロ、金平糖などの「南蛮菓子」が伝わりました。
江戸時代になると、社会が安定、商品経済が発展し、今まで貴重であった砂糖の流通が増加して行きます。
このことから菓子作りを専門とする店が増え、京都を中心に上菓子(その当時高価であった上白糖や氷砂糖を使った上等な菓子のこと)が作られました。
そこから、どんどん菓子作りの技術も向上し、広まって行きました。


【歴史上の人物と和菓子】

●千利休と「ふの焼き」
茶の湯のひとつの形式である「わび茶」を完成させた千利休。
千利休は亡くなる前の年まで頻繁に茶会を行ないました。
その時の菓子として多く使われていたのが「ふの焼き」です。
ふの焼きとは、水で溶いた小麦粉を鍋に薄くのばして焼き、表面にみそなどを塗って巻いたもので、江戸時代には京都の各所で作られていました。
ふの焼きというと何だかなじみのないものに感じますが、焼いた小麦生地に何かを巻くというその菓子は、まるでクレープのよう。
そう思うと身近な和菓子に感じますね。

●織田信長と「金平糖」
本能寺の変で知られる織田信長。
イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスと会った際、フロイスからガラス瓶に入った「Confeito(コンフェイト)」と、ろうそく数本をもらったという話があります。
Confeitoはポルトガル語で「砂糖菓子」を意味し、日本語では「金平糖」と訳されます
金平糖は、砂糖蜜を何度もかけて結晶を作っていく菓子で作り方は日本もポルトガルも変わりませんが、ポルトガルでは5日で完成させてしまうのに対し、日本では約2週間かけて丁寧に作ることで、あの特徴的なツノが出来上がります。

●徳川光圀と「福寿饅頭」
徳川光圀は水戸藩の2代目藩主で、ドラマなどの水戸黄門のモデルとなった人物として有名です。
食通としても知られている光圀。
そんな光圀と関係のある和菓子は「福寿饅頭」です。
友人である京都の公家・中院道茂が古希をむかえた時にお祝いの品として贈ったとされています。
福寿饅頭とは、紅で寿の字が書かれた大きな饅頭のことで、そのサイズはなんと約260g!
昔の重さの単位であらわすと260gは70匁(もんめ・1匁は3.75g)、道茂の年齢にかけたのでは?と言われています。

●松尾芭蕉と「ところてん」
「奥の細道」で知られる俳人・松尾芭蕉は、各地をめぐりさまざまな句を詠んでいました。
その中に食べ物の句もあり、「野明亭 清滝の水汲みよせて ところてん」という一句が残っています。
この句は芭蕉が亡くなる年の初夏に詠まれたものです。
滞在していた京都・嵯峨野の奥、栂尾や高尾に沿って流れる渓流、清滝川の水で冷やされた手作りのところてんの透明感や曲線的な美しさを川の流れに例えて表現した句とされています。

●坂本龍馬と「カステラ」
幕末の時代を生きた坂本龍馬。
薩長同盟や大政奉還を成し遂げたとして知られています。
その龍馬が新婚旅行でおりょうと鹿児島県霧島山に登ったときに持って行ったとされているのが「カステラ」です。
龍馬はこの旅行の翌年に海援隊を結成しますが、海援隊が残した「雄魂姓名録(ゆうこんせいめいろく)」にはカステラの製法が記載されていたそうです。
豊臣秀吉、徳川家康の献上品としてもカステラが使われていたという逸話も残っています。

今回は5つのエピソードをご紹介しましたが、まだまだ和菓子と関係のある歴史上の人物がたくさんいます。
普段何気なく食べている和菓子も昔をたどれば、あの人物が食べていた!?ということがあるかもしれませんね!

Text by まち/食育インストラクター