この頃の栽培は、柿の木を原木とした「ほだ木栽培」で、空中に浮遊する胞子が感染するのを待つ方法。
京都の森本彦三郎が、オガコ培地を開発。同時にガラス瓶で培養した菌床を取り出し、栽培する方法も開発します。
長野県松代町の博物学教諭の長谷川五作が、地域の生産者にビン栽培を指導。
山寺信(長野県松代町)が、ビン栽培法を開発します。
ビン口にハガキなどを巻き付け、きのこの茎を伸ばすとともに、光を遮った軟白栽培も考案。特許を取得。
中野市で試験栽培が始まります。
えのきたけ栽培が松代町を中心に地域産業として普及。農家の副業として長野県下で発展します。
オガコ培地を殺菌する高圧殺菌釜を導入。
物資も統制により、きのこ栽培は中止に。戦後、特許が切れ、各地に栽培方法が普及します。
プラスチック製栽培ビンが開発され、栽培工程も機械化したことで、効率化と規模拡大が進みます。冷房栽培が開始され、周年栽培が可能になり、えのきたけが全国に流通し始めます。
JA中野市が「種菌センター」を設置。種菌の安定的な配布が可能に。
生産が全国に広まり、生産量が急増。1984年には純白品種が開発され、品質も向上します。
企業も生産に乗り出し、大規模な工場生産が始まります。
JA中野市が大型の「培養センター」を設置。分業による効率化が進み、生産量が大幅に増加。全国屈指の生産地に。
JA中野市で液体種菌技術を導入。栽培期間が短縮し、収量が増加します。
「えのき氷」の健康や美容効果が注目され大人気に。